2007年03月08日

「千の風になって」ブームの違和感

前からいい歌だと思っていたのですが、2006年の紅白歌合戦で秋川雅史さんが「千の風になって」を歌ってから大ヒットしてしまい、以来困惑するようになりました。

まずは、秋川雅史さんの歌もいいですが、「千の風になって」は新垣 勉さんの歌のほうが、暖かく包容力があっていいなあと思います。

そして困惑というのは、この歌を大切な人を失くして悲しんでいる人に押し付けてはいけないと思うからです。もちろん、この歌で励まされ慰められている人が多いことは素晴らしいことです。この歌と自然に出会って感動したというならいいのです。ただ、どこかでおせっかいな人が「がんばれ」がわりにこの歌を押し付けていることもあるだろうと、押し付けられて嫌な思いをしている人がいるに違いないだろうと、勝手に想像して取り越し苦労をしているわけです。

「少女パレアナ」という物語を鍵山秀三郎さんが「凡事徹底」という本の中で紹介しているので、読んでみました。不思議なほどに前向きな少女パレアナがどんなにつらいことでも、いいことを探し出して喜び感謝するという「よろこびのあそび」をして暮らすうちに、回りの人たちを変えていくという話です。でもさすがのパレアナも、父親の死を喜ぶことはあんまりむずかしいと言っています。

「千の風になって」は、死者が風になって自由にはばたいていると思うことで悲しみを乗り越えようとするところがスゴイというか恐ろしいというか、なかなかできないことだと思います。悲しみにくれている人が自分からそう思えるなら本当に素晴らしいことだし、実際この歌にはそうさせる力があるらしいのですが、でも絶対に押し付けてはいけないと思うわけです。押し付けてしまったら、この歌の素晴らしさがなくなってしまう、そういう微妙なセンスを要する歌を、国民的行事ともいえる紅白で取り上げてしまうということが、私には暴挙にさえ思えて、あの紅白の日以来、困惑しているわけです。

そこへ田口ランディさんのブログを読み、だからランディさんは好きなんだよねえとあらためて思いました。ランディさんも違和感があると、「悲しみは愛と同じだから、悲しいときは悲しいままに生きなさい。」と、沖縄のカンカカリャー(宮古島の坐女)から教えられ「千の風になって……とは、ぜんぜん違う思想だけど、こっちのほうがほっとする。」と書いています。

ランディさんのブログは閉鎖、移転を繰り返していて、この文章もいずれはネット上からなくなるでしょうから、ランディさんには大変申し訳ないのだけれど、どうしてもこの文章をとっておきたくて、下に貼り付けて置きます。

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「千の風になって がなじめない理由 田口ランディ」 2007-02-28 10:32

千の風になって、という歌。
とても流行っているらしいけれど、私はどうしてもこの歌詞になじめなかった。
どうしてだろうと、そのことについて考えてみた。

まえに沖縄のカンカカリャーから、弔うということは「死者の無念を知ること。
死者の思いを引き受けること」だと教えられた。

死者の辛さを思って泣けと言われた。それが弔いだと。
悲しみを自分の都合に合わせて、癒そうとするなと。

悲しみながら生きていけ。悲しみで人は死ぬことはない。
悲しみは愛と同じだから、悲しいときは悲しいままに生きなさい。
悲しがる自分を悲しいままにほっておきなさい。

なぜ死んだのか、などと頭で考えないこと。ただ、しとしとと悲しみを雨のように浴びなさい。
頭で考えなければ悲しみにつぶされることはない。

悲しみを生きて、悲しみそのものになりなさい。
悲しみの内側に入ってしまえば、そこには愛しかない。
そう教えられた。なかなかできないけれど……。

千の風になって……とは、ぜんぜん違う思想だけど、こっちのほうがほっとする。

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「悲しみを自分の都合に合わせて、癒そうとするな」というのは、まったくその通りで、悲しみに浸るということはマイナーなだけではなくて、美しい行為、生きている者の大切な行為と思います。

愛する人が千の風になったと思えるなら、それで本当に心が癒されるなら、それは素晴らしいことだけれども、無理に癒されようとしてはいけない、悲しみを抑えてはいけないと思います。悲しいときには、存分に悲しむこと、ここから新しい生が始まると思います。

ところでクリスチャンの私は、死者は神様の元へ帰ったのだと受け止めます。そう思うと、さあ私も神様の元に召されるまで、存分に生きるぞ〜っと、元気がでます。私の長女はすでに神様の元に帰っているので、死んだら娘と再会できるし、生きていればこの世で息子と暮らせるしで、生きるもよし死ぬもよし、どちらも素敵なことだと思っています。
posted by jun at 08:40| Comment(4) | TrackBack(0) | テレビと本からA | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
常々私がいだいていた思いを的確に表現していただきありがとうございます。


この「歌」に言葉がなかったら綺麗な曲だと
あるサイトで書いたところ、ピアノバージョンとオーケストラバージョンの曲のCDを知人からいただきましたよ。


Posted by 恵子ママ at 2007年03月19日 22:05
恵子ママもでしたか。
こういう思いを表明する人はあまりなくて、
というかランディさんくらいしかみあたらなくて、
非常に少数派なのかと思ってましたら、
そうでもないのかもしれませんね。
Posted by jun at 2007年03月20日 05:50
良いお話しを、有り難うございました。随分反応が遅くて、さて、お読み頂けるかどうか?

私も、十分すぎる程、当初から違和感を抱いていました。紅白のずっと前、新井満より前からです。

自分の問題になるのです、私の場合。いや、近いのです、と言わないと正確ではありませんね。もう72歳です。子供が三人、孫二人に、私は「千の風」になったと思ってくれ等とはとても言う気になれません。

徒に嘆き悲しむよりは、そうしろ、とは言えても。私は、悲しみは直ぐ忘れて、前に向き直って、スタスタ歩いてくれ、と言いたいと思っています。
Posted by リベル at 2007年07月29日 00:19
リベルさん、お久しぶりです。いつ書き込まれても、大丈夫ですよ。
コメント、トラバがあると即、Seesaaからメールがきます。

>私は「千の風」になったと思ってくれ等とはとても言う気になれません。

なるほど、リベルさんの問題ですね。そう言われると、私もそう思ってもらうより、

>前に向き直って、スタスタ歩いてくれ、

そうですよね。確かに。
Posted by jun at 2007年07月29日 08:50
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